愛や恋という言葉は毎日の様に耳にしますし、歌を聞けば恋愛の曲が多いですよね。
人は簡単に「恋をした」とか「好き」という言葉で表現しますが、「愛している」という言葉はなかなか使わない言葉です。
そもそも、恋と愛の違いは何なのでしょうか。
また、「真実の愛」とは一体どんなものなのでしょうか。
そこで今回は、愛についての言葉が有名なマザー・テレサの言葉を借りながら「真実の愛」について見ていきたいと思います。
あなたの考える「真実の愛」とぜひ比べてみて下さい。
真実の愛とは
- 相手とのつながり
- 無条件であること
- 許すこと
相手とのつながり
愛は恋と違い、自分本位の感情ではないので、相手に尽くしていること、相手を愛している行為自体が自分にとって大きな喜びで、愛されている側も愛を受け取ることで心を満たしているため、お互いに心を共有し合える感情だと思います。
愛は、相手の全てを受け入れて、自分の心と相手の心を共有し合う温かい精神のつながりのような心理状態ではないでしょうか。その中には、気配り、思いやり、自己犠牲などの献身的な感情が伴います。
相手を無視したり、目移りしてしまうのは、愛ではない。今ここで、一緒にいることを心から望むのが愛だ。ひとたび愛を得ると、それ以上何もしなくていいと思う人がいるが、これは大きな間違いだ。本当に愛していれば、相手を常に気にかけていることが、楽しくて仕方がないはずだ。雑用をこなしているような気分になっているとすれば、そこに愛はない。
インドの貧しい人々を救う活動をされてきた事で有名なマザー・テレサですが、実は彼女は優秀で裕福な女性でした。
そんな彼女はある日、神の声を聞き全てを捨てて着替えのサリー1枚と、それを洗うタライ1つを持って家を出るのです。
そんな彼女はこんな言葉を残しています。
「愛の反対は憎しみではなく無関心です」
日本はとても裕福な発展した国ですが、マザー・テレサが日本を訪れた時には、「この国は、物は豊かでも心は貧しい国だ」と批判したことでも知られています。
現代の私たちは同じマンションの住人の顔も知らなければ、道で困った人を助ける機会も、お互いに声を掛け合う機会も減ってきました。
昔の様にずっと同じ土地に住んで、お互いを助け合う生活から変わってきたからでしょう。
そんなマザー・テレサの言葉からもわかる様に、愛とはそれ程難しい事ではありませんが、お互いを気にかけ合うことが大前提ではないでしょうか。
毎日会えなくても、「今何をしているのか」「寂しくないだろうか」「何かできることはないだろうか」という気持ちはまさに両親が子供に向ける気持ちに似ています。
相手を思うこと、関心を持って自分が何か役に立てないかと思うこと、一時的ではなく想い続けることこそ、真実の愛の1つではないでしょうか。
無条件であること
私たち人間は、きっと自分では気づいていないほど自分が大切です。でも自分の幸せよりも愛する人の幸せを心から願えたら、それはもう聖母です。愛する人が他の人を大切に思っているとすると、その恋が実りますように、幸せになりますようにと願うという事です。愛する人の幸せを願うのは、皆誰しもが考えることですが、愛する人の幸せがもしも自分だったのなら、どれほど幸せなのだろうと思います。
出典 真実の愛って一体何? 分かっているようで分からない“愛”のお話
親が子供を愛する時には2種類の愛情があるといいます。
1つは「あなたがいい子であれば、私はあなたを愛します」という条件付きの愛情。
そしてもう1つは「あなたがどんなことをしても、どこにいても、私はあなたを愛します」という無条件の愛情です。
マザー・テレサは貧しい人に仕える時、彼らから何かを得ようとか利用しようとはしていませんでした。
そもそも、お金や利益が目的であれば最初から裕福な生活を続けていたでしょう。
しかし彼らから何かを得ることはなくても、マザー・テレサは与え続けました。
それは無条件の愛情であったのです。
「真実の愛」であるならば、「無条件の愛」であるはずです。
自分の子供が、恋人が、夫が病気であっても、辛いことにぶち当たって自分まで辛いときでも、幸せな時でもずっと相手を愛することこそ無条件の愛情であり、真実の愛と呼べるのです。
相手がお金を持っているか、どんな地位にいるのか、仕事は、ルックスは、と見た目や条件に気を取られているうちは、本当の愛とは呼べません。
相手がどんな職業であっても、どんなルックスであっても「この人しかいない」と思えるのであれば、それこそ愛ではないでしょうか。
真実の愛は条件や状況によって変化がないのです。
許すこと
人は生きていると様々な場面に遭遇します。
最近は物騒な世の中な上、自然災害が多く、家族を亡くす人も多いです。
心も体も傷つけられる時、心無い誹謗中傷もあるでしょう。
しかし、真実の愛とは許すことの上に成り立つと言えます。
例えば愛する人が自分を裏切った時、自分を傷つけた時、あなたならどうしますか?
もう二度と会わない、離婚する、別れるなど相手を近づけない事もできます。
しかしそれは愛と呼べるでしょうか?
全てを許すことはもちろん難しいです。
許しがたい事もあります。
しかし、間違いを犯さない人などいないのです。
間違える、誤って傷つけることは誰しもに起こることなのです。
そこで、相手を許すことは簡単ではありませんが、相手の行動の向こうにある気持ちを汲むことで、相手を許すことは大きな愛への一歩です。
マザー・テレサはこれに関して「もし本当に愛したいと願うなら、許すことを知らなければなりません」と言っています。
彼女の行動を、最初、人々は馬鹿にしていました。
それをして何になるのかと馬鹿にしていた人々が、1人、また1人と賛同し始めました。
マザー・テレサが彼らを許さなければ、「ひどいことを言った人は手伝わなくてもいい」ということもできたでしょう。
しかし、マザー・テレサは彼らを許し、ともに人々を救いました。
それは相手を許すことで、より大きな力となって誰かを救うことを知っていたからではないでしょうか。
真実の愛をもってすれば、子供が間違いを犯したり、恋人の過ちも許すことができます。
しかし、その為には理由を聞いて、あなたの気持ちも伝え、今度はどうすべきかを話し合い、じっくり時間をかければいいのです。
時間をかけ、相手を理解しようとし、許そうとすること、それこそ真実の愛だと言えます。
真実の愛の反対は無関心
いかがでしたか。
愛や恋と口に出すことは簡単ですが、本当の愛とは何なのかをお分かりいただけたでしょうか。
ここではマザー・テレサの言葉を借りて愛についてご紹介しました。
もちろん、彼女の様な偉人に一日でなれるはずはありません。
しかし、真実の愛は何なのかを知ることで、それに一歩ずつ近づくことはできるはずです。
まずは、人に関心を持つことから始めてみましょう。